武蔵一宮 氷川神社 ページの先頭
氷川神社について
鎮座地 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
御祭神 須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
例祭日 八月一日
社 殿 流造(ながれづくり)
境内地 約三万坪
拝 殿

由緒

氷川神社は社記によると今から凡そ二千有余年、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と伝えられます。

御祭神、須佐之男命は天照大御神と月読命とともに伊弉諾命から生まれた三貴子の一神で、八俣大蛇退治など力強く雄々しい神として知られております。
大己貴命は須佐之男命の御子に坐して国土を天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)に御譲りになられた国土経営の神です。稲田姫命は須佐之男命の御妃で大己貴命の御母神です。
この御三神をここにお祀りされたのは国土経営、民福安昌祈願のためであって、大和朝廷の威光が東方に及ぶにつれて、当神社の地位も重くなったと考えられています。

神社の鎮座する地は、大宮台地の上にあり、その中でも鼻のように高く突き出た位置にある為、一帯の地名は高鼻町と呼ばれます。かつて神社の東側には見沼と呼ばれる広大な湖沼があり、豊かな土壌を形成する元となっておりました。「神沼」、「御沼」とも呼ばれた見沼は正に豊かな恵みを与えて下さる神聖な水をたたえた湖沼で、江戸時代に開発された見沼溜井は周囲約39キロに及ぶ大貯水池でした。現在境内にある神池は見沼の名残であるといわれ、神域の蛇の池からの湧水が豊富に注がれております。
地理的な点から見ても、見沼をひかえ土地は肥沃で東西南北に交通の便もよく、人々は益々繁栄し今日の基をなすに至ったものと思われます。

第十二代景行天皇の御代、日本武尊は当神社に御参拝し東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっております。第十三代成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝廷の命により武蔵国造となって氷川神社を奉崇し、善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を高めたと伝わります。
今から凡そ千二百年前の聖武天皇の御代には武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳には名神大社として、月次新嘗案上の官幣に預かり、又臨時祭にも奉幣に預かる等、歴朝の崇敬を殊の外厚く受けてまいりました。
また武家時代になっては、鎌倉・足利・北条・徳川氏等相次いで当社を尊仰し、治承四年源頼朝公が土肥次郎実平に命じて社殿を再建、文禄五年八月には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行として社頭残らずを造営せしめ、寛文七年三月には阿部豊後守を奉行として社殿の建立をしております。

第五代孝昭天皇の御代 御創立
第十二代景行天皇の御代 日本武尊、東夷鎮定の祈願
第十三代成務天皇の御代 兄多毛比命(えたもひのみこと。出雲族)が勅命により武蔵国造となり氷川神社を専ら奉崇
第四十五代聖武天皇の御代 武蔵一宮と定められる
第六十代醍醐天皇の御代 延喜式神名帳が制定され名神大社として月次新嘗案上の官幣に預り、臨時祭の奉幣に預る
治承四年(1180) 源頼朝、社殿再建
文禄五年(1596)  徳川氏、社頭造営
寛文七年(1667) 徳川氏、社頭整備社殿建立
明治元年(1868) 氷川神社親祭の詔を賜る
明治天皇、氷川神社に行幸
御親祭を執り行わせられる
明治三年(1870) 明治天皇、氷川神社に行幸
御親祭を執り行わせられる
明治四年(1871) 官幣大社に列せられる
明治九年(1876) 米田侍従番長御代拝
明治十一年(1878) 明治天皇行幸御親拝
昭和九年(1934) 昭和天皇御親拝
神饌所竣工表参道改修
昭和三十八年(1963) 皇太子殿下(今上陛下)御参拝
昭和四十二年(1967) 昭和天皇皇后両陛下御親拝(明治天皇御親祭100年祭)
昭和六十二年(1987) 皇太子殿下妃殿下御参拝
平成五年(1993) 天皇皇后両陛下御親拝

明治天皇の御親祭

明治元年、明治天皇は都を東京に遷され、当社を武蔵国の鎮守勅祭の社と御定めになり氷川神社親祭の詔(祭政一致の詔)を賜りました。
次で同年10月28日に明治天皇は当社に行幸、御自ら祭儀を執り行わせられ更に3年11月1日再び御親祭あらせられました。
此の様に明治天皇が御親祭あらせられたのは、桓武天皇が平安遷都の折賀茂社をお祀りした御例によられたものといわれ、その模様を謹写した山田衛居筆の13メートルの長大な氷川神社行幸絵巻物は当社の社宝として大切に保存されております。
次で明治4年5月14日に行幸、官幣大社に列せられました。
明治天皇御親祭50年祭は大正6年10月28日に、100年祭は昭和42年に厳粛かつ盛大に執り行われました。150年祭は平成29年の予定です。


勅書

明治天皇行幸絵巻

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