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日本郵船氷川丸について

日本郵船氷川丸について

誕生

横浜のシンボルとして山下公園に係留され海風の中、雄大に佇む日本郵船 氷川丸(以下氷川丸)、その名は氷川神社から名付けられ、船内の神棚には氷川神社の御祭神が祀られ船内装飾には当社の神紋である「八雲」が用いられています。
氷川丸が誕生したのは昭和5年(1930)、近代化政策の一環に依るもので日本海運の夜明けでもありました。
日本と米国を結ぶ航路はシアトルとサンフランシスコがあり、米国の巨大客船に対抗する為、日本郵船は巨大客船として、シアトル航路に氷川丸、日枝丸、平安丸。サンフランシスコ航路に浅間丸、龍田丸、秩父丸を投入しました。


八雲神紋

氷川丸は横浜船渠株式会社(現 三菱重工業株式会社横浜製作所)で竣工しました。デンマークのB&W社製のディーゼルエンジンを搭載し、当時の造船技術の粋が集められた優秀貨客船であり、内装にフランス人工芸家のマルク・シモンによるアールデコ様式のデザインが施された豪華客船でした。氷川丸は11年間で太平洋を146回横断し、約1万人が乗船しました。

変遷

豪華客船として運航されていた際には秩父宮殿下妃殿下や世界の喜劇王チャールズ・チャップリン、柔道の父嘉納治五郎などの著名人が乗船されました。豪華な食事と行き届いたサービスは大変好評だったようです。戦争が激化すると海軍省に徴用されて外装を改装し病院船となり、終戦後は引揚船となりました。歴代の船長以下乗組員は大宮まで参拝するのが習わしで、戦争が始まってからは南方から持ち帰った砂糖など珍しい物資も度々献納され、安全祈願祭が行われており、また昭和17年の航海中には8月1日に船中で氷川神社の大祭を祝うお祭りが行われました。戦後は再びシアトル航路へ復帰、1960年引退し、現在のように山下公園前に係留され翌年から一般公開されるようになりました。


秩父宮雍仁親王乗船時ディナー

一等児童室

強運の船

氷川丸は数々の危機を乗り越えた事から強運の船と言われます。危機とは戦時中の3度の触雷、戦闘機からの銃撃、潜水艦との遭遇から生き延びた事、敗戦後に戦後賠償として差し押さえになりそうになった事からも生き延びた事などに由来します。最後の航海の後にも解体してスクラップになる可能性がありましたが、当時の神奈川県知事や横浜市長から青少年の海事海洋思想普及の為にと要請があり、1961年から現在のように山下公園に係留され一般公開される事になりました。


氷川神社に奉納された救命浮環

同じく羅針盤

氷川丸の今後

氷川丸は実働30年で、平成23年に横浜に係留され現在では艦齢90歳を超しました。氷川の大神様の名を戴く氷川丸を、日本の近代化遺産、また平和の象徴として悠久に伝えたいものです。

氷川丸公式サイト

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