武蔵一宮 氷川神社 ページの先頭
氷川参道

氷川参道

氷川神社の参道は中山道から南北に2km伸び、両側に美しいケヤキ並木が並んでいます。緑のトンネルのような氷川参道は大宮のシンボルとなっています。
「大いなる宮居」と称えられ、大宮の地名の由来ともなった氷川神社の周辺にはいくつもの集落ができ、門前町を作っていました。江戸時代の参道沿いには、神主の邸宅、神社に所属する境内社や寺院が建ち並び、集落は、宮町、仲町、下町、大門町の四町がありました。その四町から百姓が伝馬役を命じられておりました。その人馬が行き交った道が「元往還」です。
現在の参道や中山道と「元往還」がどのような位置関係であったかは、残念ながら明らかではありませんが、中山道が参道と重なったり、横切ったりするのは好ましくないので、参道の西側の原野が開削され、寛永5年(1628)に新たに「新往還」が開通されました。

参道の社叢の変遷と今

明治13年に描かれた『氷川神社境内乙図』には参道沿いに松や杉が描かれています。大正から昭和初期には鬱蒼とした杉並木で覆われていて「並木十八丁鉾杉つづき」と歌われていました。杉からケヤキに変わったのは戦中、戦後の資材難から伐採された事や、車の排気ガスや振動、地下水脈の低下や歩行者による根元の踏み固めなど複数の要因が考えられます。現在の参道の樹勢状況は平成22年に作成された『氷川参道のまちづくり』によると、およそ650本の高木があり、そのうちケヤキが約65%、次いでスダジイが約10%、そのほかクスノキ、エノキ、サクラなど37種類の樹木で構成されています。そのうち20本が市の天然記念物として文化財指定され、また市の保存緑地指定を受けております。


平成ひろばの整備

昭和20年の敗戦の後、大宮駅前には闇市が出来ました。菰や筵の掘っ立て小屋や地面に売り物を広げた露店商など、それが人々の生活の糧となっていた訳ですが、復興計画の障害となる為、旧大宮市・大宮警察・氷川神社の三者の合意によって、1年間の約束で参道の中央通り~旧16号間に移転致しました。しかしその後40年余り地区内に留まり、164戸の住まいと店舗が残ってしまいました。境内地が不法に占有される中で、樹木もほとんど枯死してしまい並木の景観も失われました。昭和60年から旧大宮市により氷川地区整備事業が始まり、仮住まいだった住民たちは別に用意した住宅などへ移転し、跡地は市が借地して緑地(延長約420m、面積1.4ha)を整備しました。中央の遊歩道には御影石を敷き詰め、両側の緑地帯にはケヤキ、エノキ、シイを主体に植栽し、散策路やせせらぎも設けました。更に緑地帯の両側に、一方通行の車道と片側歩道を作りました。整備は平成元年7月に完成して「平成ひろば」と名づけられました。

氷川参道保全の取り組み

氷川参道の環境を脅かす様々な問題の解決、また保全の為には神社と行政だけでは不可能です。その為地域の自治会、住民、また参道に関心を持つ市民の方々が参加し平成7年に「氷川の杜うるおいのあるまちづくり推進協議会」が発足致しました。協議会ではこれまで、パネルディスカッションやワークショップ、シンポジウム、講演会の開催の他、清掃活動や樹木調査の実施、歩行者や自動車、自転車の交通対策への取り組み、協議会だよりやパンフレットの発行などの活動が行われております。また、さいたま市では「氷川参道対策室」を設け参道の環境保全とより良いまちづくりのため、活動をしております。平成22年より緑地部分に低木や草花を植栽し、樹木保護に取り組んでおり今後も続けていく予定です。また「さいたま市路上喫煙及び空き缶等のポイ捨ての防止に関する条例」施行後、参道の一の鳥居から大宮中央通り間が路上禁煙推進モデル地区に指定された事を受け、平成25年7月よりその啓発活動の一環として看板を設置しております。

交通対策への取り組み

氷川参道の周辺の幹線道路は交通量が多く慢性的に渋滞し、中山道の渋滞を避ける為参道に流入する通過交通が課題となっています。平成21年に完成したさいたま市による一の鳥居から中央通りまでの歩車分離工事によりそれまでの「違法駐車の排除と歩行空間の確保」という問題は解決しております。また、平成31年4月25日からは、一の鳥居から二の鳥居間の一部、約400メートルの氷川参道中区間が歩行者専用道路となっております。

氷川参道 次世代への継承

参道を爽やかで緑豊かな空間として変わらずに保全する為には労力と努力を要します。特に沿道の住民の皆様の樹木へのご理解とご協力は不可欠です。また氷川参道は市民の共有財産であるという認識と共に参道を保全し、次世代に継承していく心を育む環境作りは我々の責務であります。神社、行政、市民の関係強化を推進させ、後世に誇れる氷川参道を皆様と共に構築して参りたいと思っております。ご協力をお願い申し上げます。

参道の四季

上空より

参道の鳥居他石造物

一の鳥居

一の鳥居は、江戸期より石造の明神鳥居(角井日記、村尾嘉陵の中山道大宮紀行他に記載)が建っておりましたが、大正12年(1923)の関東大地震(関東大震災)により損壊したため撤去、それから十年ほど参道入口には鳥居がありませんでしたが、昭和9年に片倉製糸紡績(現 片倉工業)より三の鳥居が奉納された事から、それまで三の鳥居であった鳥居を移築し一の鳥居としました。この時の一の鳥居は老朽化が進んだため、昭和30年に新しく建て替えられました。しかし、耐震構造検査の結果、補強工事が必要となり、現在は柱の取り換えや基礎の新設などを行っております。

二の鳥居

二の鳥居は、明治30年に北足立郡酒造業組合によって木造の神明鳥居が建てられ、大正元年に石造の神明鳥居が建て替えられました。昭和51年(1976)に明治神宮より現在の明神鳥居が移築されると、石鳥居は同年、大宮公園口に移築致しました。その移築された明治神宮の鳥居は大正9年の建立のもので、材木は台湾総督府より献木された阿里山(アーリーシャン)の樹齢1200年以上の檜です。
尚、公園口の石鳥居は、平成23年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により損壊したため、笠木部分などは撤去し、柱のみ残っております。

三の鳥居

三の鳥居は、江戸期には境内入口の鳥居として建てられており、明治年間に赤鳥居として認識されておりました。その鳥居も老朽化により明治44年に新しく建て替えられ、その後昭和9年に片倉製糸紡績(現 片倉工業)より奉納され、現在に至ります。昭和9年より以前の鳥居である赤鳥居は、参道入口に移築されて一の鳥居となっております。尚、三の鳥居の周囲の玉垣は昭和10年代に造設されたものです。

四基の鳥居から三基の鳥居へ

現在、表参道には三基の鳥居が建っておりますが、江戸期には参道17丁付近に鳥居が建っており、現在の二の鳥居のある辺りには鳥居はありませんでした。この鳥居は明治3年に撤去されております。
大正8年に、明治天皇御親祭50年祝祭の記念事業として神門が建てられる以前には、神池を渡った先にも木造の明神鳥居がありました。その鳥居は橋の内の鳥居として江戸期より建っており、明治期には大鳥居の名で呼ばれておりました。大鳥居は石燈籠一対とともに参道17丁付近に移築されましたが、昭和9年の参道整備の際に道幅や敷石との整合がつかず、老朽化もあり撤去されました。石灯籠はそのまま残り、「氷川大宮御橋内」と刻まれており往時を偲ばせております。 尚、昭和15年の昭和の大造営の際に楼門が造営され、50年祝祭の神門は移築、東門となり現存しています。
つまり江戸期には、橋の内・境内入口・17丁付近・中山道入口と四基の鳥居があり、明治3年に三基となり、明治30年に四基となり、関東大震災により三基となり、昭和9年に17丁付近の鳥居が移築されて現在の三基の鳥居の場所となり、建て替えられています。
150年ほどの間に参道や鳥居は様々に表情を変え、現在に至っています。

標石

道入口、一の鳥居脇に建つ「武蔵国一宮」の標石で享保7年(1722)氏子中により奉納されたものです。慶応4年(1868)に官軍が大宮に宿泊する際、この標石に「氷川大明神」「本地聖観音」と神仏習合色の強い銘があった為、基壇基礎を残し脇に片付けられました。明治14年に背面に「官幣大社 氷川神社」と彫り再建されました。
現存する石造遺物の中で最も古いものになります。

丁石

一丁は六十間で約109メートルです。
等間隔に建つ丁石は神社までの距離を表しています。入口に建つ「是より宮まで十八丁」の碑、現在の丁石は平成元年に高鼻二丁目の大沢鉄雄氏、世話人として仲町一丁目の大野弥平氏、土手町二丁目の北沢怡佐雄氏、髙鼻一丁目の髙槗喜種氏の奉納によるものです。丁石は参道東側に建てられています。

常夜燈

石燈籠は歴史を今に伝えます。「氷川大宮御橋内」 「武蔵国総鎮守一宮式内名神大月次新嘗」と由緒が彫られた石灯籠は、文化14年(1817)近遠の氏子中からの奉納によるもの、「武蔵国一宮東国総鎮守氷川両本宮」の銘の石燈籠は、安政6年(1859)近遠の氏子中からの奉納によるものです。

狛犬

参道に狛犬が建てられたのは平成30年、武蔵野銀行の創業65周年記念事業の一環として奉納されました。

参道に息づく鳥 ツミ

オナガ

オオタカ

古絵葉書集『氷川の杜を訪ねて』

明治時代後半には、大宮は都内から日帰りまたは一泊程度で訪れる観光地の一つでした。当社や大宮公園などは名所として絵葉書に取り上げられました。古絵葉書集は当時の大宮を知る事の出来る貴重な資料集です。1500円で授与しておりますので、お求めになる方は、神札所までお声がけ下さい。

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