神幸祭(じんこうさい)は本殿祭と橋上祭を行うお祭りです。午後3時に祭典が始まり、本殿にて御神霊を神輿にお遷しし、渡御、神池の水で清めた神橋に神輿を奉安し橋上祭を執り行います。その後、神池の東を周り本殿へと還御致します。
奉仕する神職、雅楽を奏する伶人、神楽を奏する神楽師、威儀物や神輿を担ぐ與丁など100名を超える人数で、神幸祭は厳粛、かつ盛大に行われます。
社殿の構造変化の影響と神幸祭
江戸期には氷川神社の社殿は境内に三社あり、男体宮、女体宮、簸王子宮が三社同格として祭祀を行っておりましたが、明治になると男体宮が本社、女体宮と簸王子宮は摂社とされ、更に明治15年には男体宮が解体、本殿が新たに造営され須佐之男命一座が主祭神としてお祀りされました。稲田姫命と大己貴命が主祭神に加わるのは明治29年の事です。尚、女体宮は御嶽神社、簸王子宮は天津神社として境内に移築されています。
江戸期の神幸祭は、旧暦6月14日に「仮殿神事、神秘神事」として男体宮と女体宮の間にある仮殿に男体宮の神輿を奉安し、女体宮の神鏡の下に小麦茎で編んだ八重畳を敷き、翌15日に「神輿渡、神橋祭」として神橋上に小麦藁莚を敷き橋上祭を斎行、その後に渡御を行うというもので、神饌にも小麦初穂や一夜造りの神酒が供えられた事から小麦の収穫祭の性格を持っておりました。現在は、拝殿に神輿を奉安し本殿祭を斎行、本殿より御霊代を遷し、神橋上で橋上祭を行い、五穀豊穣と氏子崇敬者の無病息災とを祈ります。神幸祭の祭典日は明治8年の例祭日変更に伴い、8月2日に変更となっております。
江戸期より紡がれる氏子と一体のお祭り
祭典でお供えされる小麦や使用される小麦藁莚は神領地であった上落合地区より奉納されるのが習わしでした。現在、上落合地区に小麦農家は無くなっておりますが、他の地域で耕作された小麦を同地区の氏子が莚を編み奉納する事で伝統を繋いでおります。この小麦藁莚は拝殿や神橋上で使用されます。
神輿の担ぎ手となる輿丁(よちょう)は旧神領地、忌垣(いがき)と称する区域内(大成、東大成、上落合、新開、土手、堀の内)の六町内の氏子の方と氏子青年会の方になります。六町内からは橋上祭のお供えとして鏡餅の奉納も頂いております。忌垣の忌とは清浄を意味し、垣は境界の意味で、区域内は神聖かつ清浄である事を表しています。
神幸祭は氷川神社の恒例祭の中でも唯一、氏子が祭典に直接奉仕するお祭りです。今後もこの伝統を繋いでいくため、ご協力をお願いするとともに、他町内の氏子崇敬者の皆様におかれましても御祭神の恩頼が受けられるよう、祭典を是非御覧下さい。